小牧・長久手の戦いの際に、家康と信雄が生駒屋敷から出て、秀吉軍の動向を眺めた塚です。
6代 生駒利勝が林羅山の孫に撰文(碑文の文章を作ること)させた碑が現在も残ります。
碑文に「冨士塚」とあるので、これを正文とし、以降表記を「冨士塚」で統一したい。
冨士塚碑銘(原文)
冨士塚碑銘(書き下し)
冨士塚碑銘(現代語訳)
【冨士塚・碑】 (愛知県 江南市)
【久昌寺縁起】
この巻物は、生駒家と久昌寺の歴史を17世紀に書き記されたものです。
織田信長と久菴桂昌(通称:吉乃)の関係に触れた唯一の文書です。
昭和26年に、疎開先である久昌寺で16代目の生駒鐘が行った生駒家古文書展覧会で公開された時には、織田信長とこの地域(現愛知県江南市周辺地域)を関係付ける貴重な史料の大発見であると郷土史家らの関心を大きく集めました。
久昌寺縁起の原文、解説・読み下し文は、こちらからご覧下さい。
【秀吉の文書】
豊臣秀吉 礼状①
4代目の生駒家長が豊臣秀吉に柿を送りました。それに対する豊臣秀吉の生駒家長宛礼状です。折紙(一枚の料紙を横に2つに折ったもの)。
豊臣秀吉 礼状②
4代目の生駒家長が豊臣秀吉に大根100本と鮎鮨3桶を送りました。それに対する秀吉の生駒家長宛礼状です。折紙。
豊臣秀吉 知行目録①
豊臣秀吉が4代目の生駒八右衛門尉(家長)宛てた領地に関する文書です。
小折五郷1559石9斗、大山寺村345石3斗8升、九日市場内50石2斗、併せて1970石の知行方目録です。堅紙(料紙一枚をつかったもの)。
豊臣秀吉 知行目録②
豊臣秀吉が5代目の生駒隼人佐(利豊)に宛てた領地に関する文書です。
小折村五郷1560石の知行方目録です。折紙。
豊臣秀吉 知行目録③
豊臣秀吉が「生駒八右衛門入道」に宛てた領地に関する文書です。
「入道」とあるので隠居料として大山寺村・九日市場村内で395石余を与えられました。家長は隠居後、「玄球」と名乗っています。折紙。
【宝頂山墓地】 (愛知県江南市)
4代 家長夫婦の墓、5代 利豊夫婦の墓、10代 周房の墓が現存します。
5代 利豊夫婦の墓は、珍しい家形廟でこの地方には、唯一のものです。
側面には、関ヶ原の戦いの前哨戦である「岐阜攻め」の際、降参した秀信(三法師)が高野山に向かう前に生駒屋敷に滞在した事がなどが彫られ記録されています。
また、利豊の妻は苗木城の遠山友政の長女であり、手水鉢は同じく、木曽の関所守の山村氏に嫁いだ次女から供養のために寄進されたものです。
【信長の書状】
永禄三年、桶狭間の戦いにおいて、久菴桂昌尼の兄である生駒家長が織田信長を支援した際に報償として下された書状です。
内容は、「尾張の国中、自由に(関銭を取らず)通行してよい。この事は、末代まで間違いないことである。」と書かれています。
【利豊和歌集】
5代 生駒利豊が、正保4年(1647年)に致仕した時から作歌を始め、寛文10年(1670年)96歳で亡くなるまで600有余首にのぼる歌を作り続け1冊にまとめたものです。
利豊は松尾芭蕉が諸国を回る40年前に、西行の跡を辿り、現在の関東・東北へと回り、歌を残しました。
【生駒家家譜】
10代 周房がこれまでに書かれていたものをまとめ、それに周房以降、代々の人物の勤め書きなどを書き加えて成立したものです。
写真は、久菴桂昌(通称:吉乃)の娘、徳姫(家康の長男:信康の妻)の項です。
「生駒家系譜抄」として、初代から4代までの歴代当主の履歴を読めるようにしました。
【生駒屋敷図(小折城)】
城形態を成し、小折城と称していたが、小牧・長久手の戦い以後、豊臣秀吉時代に、外郭(外曲輪)の一部を崩した時に城形態を無くし、生駒屋敷と称するようになり、秀吉の許可のもと引き続き居住するようになりました。
小折城は、東西370m 南北540mの広大な城(ナゴヤドーム約15個分)で、当時の清州城を凌ぐ大きさでした。(愛知県 中世城館跡調査報告1尾張地区 1991年 愛知県教育委員会より)
現在、小牧城の研究が進んでおり、今後、添城としての小折城の研究が進むことが期待されます。
【久菴桂昌尼 300回忌 柏原藩 織田家書状】
生駒家が久菴桂昌(通称:吉乃)の50回忌遠忌をはじめ、150、200、250回遠忌を行ないました。写真は、幕末の300回遠忌の際、丹波 柏原藩の織田家から来た書状です。
【久昌寺・久昌寺墓地】 (愛知県江南市)
久菴桂昌(通称:吉乃)の菩提を弔うために、それまであった龍徳寺の名称を変え、久と昌をとり久昌寺と名付けました 。
久菴桂昌(通称:吉乃)の他、生駒家初代からの墓碑が現存します。
写真左の墓碑は、右より久菴桂昌大禅定尼、初代家広・2代豊政、3代家宗夫妻、
4代家長夫妻、5代利豊夫妻のものです。
【久昌寺・久昌寺墓地2】 (愛知県江南市)
生駒家当主の夫人たち(久昌寺墓地より)
写真は右から、6代目夫人、6代目長男(夭折)、7代目、7代目夫人、8代目夫人、9代目の墓碑です。久昌寺にある墓碑から歴代当主の正室の名をあげてみます。
廣漠院古岩慈心大姉(6代 生駒利勝正室、阿部氏)
月桂院殿明窓貞白大姉(7代 生駒宗勝正室、石河氏)
旭照院殿陽邦元離大姉(8代 生駒致長正室、阿部氏)
天崇院殿長雲榮久大姉(10代 生駒周房正室、石河氏)
仙祥院殿松室鶴壽大姉(11代 生駒周邑正室、石河氏)
照貞院殿端相實巖大姉(12代 生駒周詢正室、石河氏)
翠松院殿賢室貞操禅定尼(13代 生駒周武正室、遠山氏)
梅林道薫尼首座(14代 生駒周晃正室、竹腰氏)
歴代当主の正室は、生駒家より「家格」(役職、石高)が上の家から迎えています。同じ家から嫁いでいるのは、母(祖母)の在所から迎えたものと思われます。
13代目周武は12代周詢(ちかまさ)の弟で、本来は家督を継ぐ立場にありませんでしたが、甥が幼少のため、跡を継ぐことになりました。正室遠山氏は苗木藩主の遠山家ではなく尾張藩士の遠山家です。周武の跡は12代目の実子、周晃が家督を継ぎました。
【武功夜話 三巻本 原本(コピー)】
織田信長と久菴桂昌(通称:吉乃)を取り上げた、武功夜話 三巻本。
昭和34年の伊勢湾台風の際、愛知県江南市の吉田家の蔵の天井が崩れ、発見されたものと言われています。
【生駒平三郎の墓】
4代目 生駒家長の孫が生駒平三郎です。
久菴桂昌大禅定尼(通称:吉乃)の荼毘地である経塚の北に現存します。
蜂須賀家政に仕えた後、織田信忠の子である織田秀信(三法師)に仕え、関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜攻めで柳田半助に討ち取られ亡くなりました。
生駒家長が孫を想い、墓碑を建てたと伝わるものです。
【出典:綿考輯録(熊本細川家伝記)・尾張生駒家系譜・阿波生駒彦吉家系譜】
【内藤東甫の俳画】
尾張藩士であり、書画に精通し、「張州雑誌」を編纂した、内藤東甫(1728-1788)が天明の大飢饉に際し、救済費用を集めるため絵を描きました。この俳画は天明4年に飢饉の困難を乗り越えるよう、民を励ますために書いたものを譲り受けたものです。
内藤東甫は、生駒家の縁戚である横井也有(尾張藩の重臣で、俳人)と懇意でした。
句の解釈は、「畑に田に、打ち出の小づちよりも、鍬をふるいなさい」というものです。
【尾張藩士の歌】
【尾張藩主の歌】
【生駒周行にあてた「政治の心得」】
生駒周行の実父、山澄右近(龍官)が書いたものです。以下、内容です。
政治的決定は、先入見を排し(「上に賄賂の贔屓なく下に追従の音物なく」「自も他もみな平等にし」)、自制心を以て(「心身を磨き私を去り」)正義と道理に則って決着しなさい、そうすれば(政争で)思わぬ罪に陥ることもない。と、慎重に行動するよう念を押しています。
藩主側近になった周行に対し、龍官も御用人を務め、その後「年寄役」(家老)にも就任した事がある自らの経験から伝えたものと思われます。
【石河家からの嫁入り道具 和鏡】
作者は「津田薩摩守定次」です。鏡だけの重さが1.4キロもあります。
【宝頂山石遺之銘】
関ヶ原の戦いの際、尾張衆であった生駒利豊が宇喜多秀家軍の武将、足立勘十郎を討った事が書かれている項です。
『関ヶ原の合戦の真実』(2014)白峰旬著では、生駒文書を使用し、この合戦の様子を詳細に解説がなされています。
岐阜攻めで敗れた、織田秀信(三法師)が「我ら縁者」と生駒屋敷に寄った事。そして、尾張の大将、福島正則が生駒利豊に「高野山に向かう秀信の共をしなさい」旨命じましたが、生駒利豊は断り、関ヶ原の戦いに向かった事が書かれています。
なお、生駒利豊は石田三成の誘いを受けていますが、これも断りました。
【露月公関ヶ原功名槍】
この槍は、生駒利豊が関ヶ原の戦いで宇喜多秀家軍の武将、足立勘十郎を討った槍の現物です。
代々、家宝として大切に扱われています。
【平田包み(百両)享保新金】
3枚の写真は同一のもので、角度を変えて撮影したものです。各所に押印されており、厳重な様子が窺われます。
この包みの製作者は平田新六と平田惣助で、尾張地方でこの役割を持った人物と考えて良いと思います。