コラム 生駒屋敷

生駒周行(十五代)と明治維新前後

= 明治天皇 徳川将軍 近衛関白との関係 =

 江戸時代から明治時代への変革期、日本は黒船の来航もあり、混乱の中にあったと思われる。それは、権力争いでは無く、イデオロギー闘争と言って良いだろう。どの様な枠組みで欧米の列強国から日本国を守るのかの議論が各地域でなされた時代である。

 この時代のイデオロギー闘争は戦国時代の国盗り合戦と同じく日本の社会に大きく影響を与えたものであり、社会は大きく混乱したものと推測される。  
尾張藩では、ちょうどこの時期に重要な藩士を多く処刑したとされる「青松葉事件」が起こる。しかし、この事件の真相は明らかにされていない。尾張藩のあらゆる記録にも残っていない。尾張藩の記録を残す、名古屋市東区の蓬左文庫や東京の徳川林政史研究所にも残っていない。この後、述べて行くが、15代当主:生駒周行の記録にも、この青松葉事件に関しては一切の記録が無い。
記録として残さないと連帯して行った事であったと推測される。その様な緊張感のある事が行われた時代であったという事を押さえて、この時代を見て行きたい。

 以下は、尾張藩の軍事総裁、民生知事、会計知事としての役割を与えられた生駒周行の記録である。
 江戸時代から明治時代の変革期の真っただ中を尾張藩の要職に就き事に向かった。

 水戸藩の尊王攘夷派の過激派である天狗党が京都御所に向かう道中、生駒周行ら尾張藩、大垣藩が現在の岐阜県各務原市鵜沼宿で西進を止めた事や 明治天皇、江戸徳川将軍、近衛関白などの関りから、尾張藩の藩士がこの時代にどの様な行動をとったかが垣間見える。

 明治天皇が、愛知県津島市佐屋町に一泊された事の記録もここにも残る(他所にも残る)。
 研究や関心の幅を広げる意味において、また記録として残す意味において、残しておきたい。

 以下、家譜を基に周行の維新前後の尾張藩での役職・事跡を記してみた。周行は、黒船来航以降の激動の時代に生駒家十五代当主となり、20歳頃から尾張藩の要職を務め、28歳で明治維新を迎えた。

安政二年(1855年)・・・16歳

家督相続(四千石)、御礼として御太刀・御馬代を殿様(十四代慶勝)に献上。「大寄合」を仰せつかる。

(安政の大獄で慶勝隠居し、茂徳藩主になるが、桜田門外の変後、慶勝が藩の実権を握り、慶勝嫡男・元千代様が文久元年6歳で藩主(十六代義宜)になる。)

文久元年(1861年)・・・21歳

9月、新藩主・元千代様のお供で15日江戸へ御發駕27日下着。
御供相勤につき、元千代様より八丈縞壱反下置かれる。

文久二年(1862年)・・・22歳

10月、元千代様御帰国につき、御供して登城(江戸城)し、公方様(十
四代将軍家茂)に黒書院躑躅之間にて御目見し、縮緬三巻拝領す。
15日發駕、25日尾張着。
11月、慶勝御上洛につき「御用懸」を仰せつかり、先駆けて19日に尾張を立ち伊勢路で22日に京着。同月晦日、殿の御使いで近衛関白様に御目見。御使之旨等滞りなく済み、御居間で、関白様(近衛忠煕)・左大将(近衛忠房)御同座にて御目見蒙り、御両所へ銀拾枚宛差上げる。

文久三年(1863年)・・・23歳

6月、前大納言様(慶勝)帰国のお供仰せつかり、御手自から御羽織地・御袴地下置かれる。また、「御側御用人」を仰せつかり、御上洛中の御用向相勤候につき、時服弐・銀三拾枚下置かれる。21日御發籠、御供して24日尾張に帰着。
11月、御上洛中の御用向骨折相勤候につき時服二下置かれる。
12月、「御城代」仰せつかる。

(文久四年・・・1864年、は途中で元治に改元され、池田屋事件・禁門の変・長州征伐などが起き、徳川慶勝が征長総督に任命され、11月の長州藩三家老の切腹で実質的には終了し、翌年早々、慶勝は征長軍を解兵した。)

元治二年(1865年)・・・25歳

正月、田沼玄蕃頭殿、熱田止宿につき年寄衆に代わり御用相勤。

(水戸天狗党の乱が前年11月起き、中山道を京都に向け進軍し、11月末には、御嵩・鵜沼宿に達した。幕府は尾張藩・大垣藩に街道封鎖の指示をし、天狗党は方向を変え北上し敦賀で3月鎮圧された。田沼玄蕃頭は、幕府追討軍の責任者であった。)

慶応元年(1865年)・・・25歳

(元治二年四月慶応に改元)
4月、前大納言様、(長州征伐)御凱旋御祝、御包菓子下置かれる。
5月、「年寄列」(注1)を仰せつかる。また、甲子季浪士(天狗党)の通行につき御備筋御用向取扱候につき御目見され、御小柄・御包菓子下置かれる。
8月、御武備筋之御用向取扱候様仰せつかる。

慶応二年(1866年)・・・26歳

9月、「御勝手懸」を仰せつけられ、御武備之御用向も是迄之通り取扱候様仰せつかる。

慶応四年(1868年)・・・28歳

2月、「軍事副総裁」を仰せつかる。
(4月、江戸城明け渡し時に尾張藩兵が官軍側の引取実行部隊として接収し、暫く江戸城を警護する。)
8月、「年寄加判」・「軍事総裁」を仰せつかる。

明治元年(1868年)・・・28歳

(慶応四年九月明治に改元)
10月、東京に(明治天皇)御着輦の為、御祝儀御使として罷下り候につき、御小袖・御割羽織等下置かれる。22日尾州発足、東海道罷下り
29日東京着。
11月、御用済に付き、13日東京発足、中山道罷登り23日尾州着。
12月、還幸(明治天皇、京都に還られる)に付き。神守宿へ罷越候ところ、風烈御渡海(木曽川を渡る)差支、佐屋驛(津島市)御泊輦相成に付き、佐屋驛に罷越、御發輦の上引取る。(注2)

明治二年(1869年)・・・29歳

正月、「執政」を命じられ、「会計知事」も兼務相勤める様達せられる。
2月、三位中将様(義宜)天機御伺御上京(京都)之御供命じられ、5日伊勢路罷登、10日京着。
4月、三位中将様(義宜)御東下(東京へ行かれる)に付き、6日西京発足、伊勢路にて9日尾地着、15日尾發し、東海道罷下り24日東京御屋敷着。
9月、版籍奉還により、朝廷(太政官)より、「名古屋藩権大参事」に任命され、「刑法知事」・「民政判事」職に就く。

以上、周行の主な役職等をみると、
  1. 文久二年、22歳で新藩主のお供で江戸城に登城した折、将軍に御目見えし、縮緬三巻を拝領する栄誉に浴し、尾張帰着後は休む間もなく、慶勝の命で、慶勝の上洛に先立ち近衛関白を訪ねている。
    当時、幕府に無断で公家との接触は禁じられていたので、内密な事柄のものと推測される。
    翌文久三年、慶勝帰国時は、御供し、上洛中の働きにつき、銀三十枚他数多くの品を拝領しているので、かなり重要な御用勤であったと推測される。
  2. 水戸天狗党の乱(元治元年)では、幕府追討責任者と熱田宿で会い慶勝から御備筋御用取扱(尾張領通過させなかった)につき御小柄等を頂き、軍事関係の役職を勤めるようになる。慶応四年の鳥羽伏見の戦いの後、28歳で軍事副総裁・軍事総裁となる。
  3. 明治天皇が東京に着かれた時は、藩代表として行き、一旦、京都に還られ、再上京される時はその都度、三位中将様(義宜)にお供して東奔西走している。
冒頭で述べた様に、役職・事跡を記した家譜である為、幕末の重要事件「小御所会議」・「鳥羽伏見の戦い」・「青松葉事件」などについては、その任に就いていなかったのか、一切記載がない。
(注1)「年寄列」・「年寄加判」とは、一般的には家老のことで、尾張藩では成瀬家・竹腰家を含めて4〜5人で、藩政を執行していた。

(注2)東海道は熱田宿から船で桑名宿へ渡っていたが、海が荒れている時は、内陸部の佐屋街道を利用し、佐屋宿(津島市)から陸路下り、弥富辺りで木曽川を渡り、桑名宿へ向かった。

平成29年11月
生駒 英夫