コラム 生駒屋敷

関が原の戦いと「義」に生きた武将

 昨年の大河ドラマ「真田丸」はここ5~6年の大河ドラマの中では視聴率も高く、関ヶ原の戦いの場面も期待したのですが、戦いの場面は殆どなく、前哨戦の伏見城の戦いも出てきませんでしたが、関が原の戦いで「義」・・・我が身の利害を顧みず、主君や友人の為に命を捨てる・・・を貫いた武将として語られる人物として大谷吉継や鳥居元忠が有名です。

 大谷吉継は、徳川家康について上杉討伐軍に参加すべく領国(敦賀)を立つが、途中、石田三成に会い家康打倒に参加するよう誘いを受けます。吉継は再三、家康と戦う事は無謀で勝機が無いことを説きますが、親友・三成の固い決意と熱意の前に敗けるのを覚悟して三成側に付き、関ヶ原で討死します。(享年35才)。

 鳥居元忠は、徳川家康が今川氏の人質として駿河に行く幼少時から近習として仕えた人で、家康が上杉討伐で関東に向かう時、家康に伏見城の守将をたのまれます。石田三成が打倒家康で挙兵すれば最初に攻撃してくるのは伏見城で、守る人数も少なく、戦いが始まれば落城は十分予想されましたが、鳥居元忠は玉砕覚悟で引受けます。家康と互いに今生の別れと遅くまで酒を酌み交わしたと云われています。
 鳥居元忠・徳川方は2千人弱、石田三成側攻城軍は4万人とも云われ、短時日での落城を予想していた三成方は、鳥居元忠側の奮戦により、落城させるのに十数日間を費やし、その後の美濃・尾張方面への進出計画が大きく遅れる要因となりました。

 この時討死した鳥居元忠(享年61歳)の嫡男・忠政に生駒家長(四代)の娘が嫁いでいます。形式的には、家長の別の娘が嫁いでいた滝川雄利の養女として嫁ぎました。忠政は、関ヶ原の戦い後、亡父の功績により、下総矢作藩4万石から陸奥磐城平藩10万石に加増され、後に、山形藩24万石と譜代大名の中では、屈指の大大名になりました。

<参考>

1.
滝川雄利は織田信雄(久菴桂昌・信長の次男)の家老職を務め、後に伊勢神戸2万石・常陸片野藩2万石の藩主になった人物で、織田信雄失脚後も秀吉・家康に認められ大名として生き残った人ですから、なかなか政治力もあったのでしょう。

2.
徳川四天王の石高を見てみると、家康が関東に移封時に、井伊直政(12万石)・本多忠勝(10万石)・榊原康政(10万石)・酒井忠次(3万石)・鳥居元忠(4万石)で、その後、関ヶ原の戦いや大阪の陣を経て井伊家(30万石)・本多・榊原・酒井家(15~16万石)になりますが、鳥居忠政は1622年に24万石の大名になったのですから、亡父の功績が如何に大きかったかと云うことでしょうか。尚、本多家については、コラム欄「本多平八郎姿絵屏風」も参照下さい。

3.
生駒家長(四代目)の娘は、蜂須賀家政(徳島藩主)・滝川雄利(常陸片野藩主)・鳥居忠政(後の山形藩主)と大名家に嫁いでいます。

平成29年1月
肥後次郎