コラム 生駒屋敷

新説 =織田信長が作った城 小折城=

『信長公記』は太田牛一が1610年以降に作成した編纂物である。信長の大枠の動きを知る参考資料として有益であり、必ずしも一次史料としてその内容を確定的に捉えていくものでは無いと認識している。

さて、人気の信長であるが、信長の記録は乏しく、一般的に『信長公記』が自由に解釈されている。暴論は論外だが、確定的に否定出来る根拠も無いといった現状では、その様な扱いでコンセンサスが得られているものであるのだろう。

 今回は、『信長公記』のある一文に注目し、仮説を述べていく。

『信長公記』には以下の様な一文がある。

小真木山へは、ふもとまで川つゞきにて、資材雑具取り候に自由の地にて候なり。

 『信長公記』では、小真木山、小牧山と記述がある。当時は当て字だったとか、そもそも2つの場所が違い、使い分けをしていたのかわからないが、作者の太田牛一はその様に記述している。『信長公記』以前に書かれたとする、『武功夜話』にある「駒来山」は、考察する上で有益ではないと判断しここで論じる上では採用しない。

すなわち、小真木山の麓には、運搬が出来るほどの川が流れていたというのである。現在の愛知県小牧市の小牧山の麓には古くからの川が無く、あるのは近代に作られた用水路である。

ここで、小折城の紹介をしたい。信長と政略結婚をしたであろう生駒家宗の娘である久菴は、信長が尾張平定のまさにその最中に3人の子を産んだ。生駒家宗の本拠地が小折なのである。

小折城は当ホームページの歴史史料の説明にあるように生駒屋敷図を使用し、ここに存在したという記録の紹介に留めていたが、もう少し踏み込んでその正体考えてみたい。
 
 小折城は名古屋ドームのグラウンド面積約15個分の大きな敷地で、周囲は曲輪(くるわ)(土塀など、防御を意図して作られた建築物)により囲まれ、別掲の図にあるように出丸もあり、戦闘形態の城だったと推測される。また、城内に町屋(職人の住居)があった記録がある。
 この広大な城は、当時の清州城よりも大きく(愛知県中世城館跡調査報告Ⅰ)、この地域の豪族である生駒家が高尚な目的を持って建てたとは考えにくく、また、生駒家の手勢だけで作り、守れる大きさでもない。
通説では、小折城は、小牧長久手の戦いの際に、この様に整備されたのではないかとの見解もあるが、小牧長久手の戦いの際に、家康・織田信雄がこの拠点をここまで整備する必要があったかは疑問である。秀吉が生駒の小折城を攻め入り壊すとは考えにくい。結果的に、この小牧長久手の戦いの最前線に位置しながら、戦いの場にならなかった。もし、小折城を広大な戦闘拠点と家康や織田信雄が考えたなら、戦闘の舞台になってもおかしくない位置である。
 
家康、信雄が建てたのでなければ、小折城は、織田信長が建てた城ではないだろうか。

 この小折城の脇には、今は整備され穏やかな青木川が流れている。小牧・長久手の合戦終結の講和条約の際、殆どすべての城、屋敷、砦が壊されたが、秀吉は生駒家に小折城(生駒屋敷)に住んでよいと壊さなかった事実がある。(この時に小折城から生駒屋敷に呼び名を変える)
 小折城より北の砦である、宮後などの解体物資は先の青木川を使い、小折城や清州城、長島城に運ばれた記録が「中村家文書」に残る。当時は、木曽川の支流として物資を運べる大きさであった。また、生駒家はこの青木川に簗を設け鮎などの魚を獲っていた。そのため、秀吉に「鮎寿司」を送った記録が残る。「信長公記」の「城の脇を流れる川」の記述を連想させる。

現在の小牧城研究を否定するわけではない。何かしら、あそこにはあったのだろうと推測する。
ただ、信長の城はもう一つ、あったのではないかと推測するものである。

城は天災が起きた際、民衆の避難所として使われた事からも、信長は広大な小折城を作り、尾張を統一し、盤石な状態を築こうとしたのではないだろうか。

この小折城のすぐ西には、加納馬場という地名の場所に秀吉と弟の秀長の所領があった。秀吉は生駒家にいくつかの厚遇をしている。それは、生駒家を通じ、小折城に対し特別な想いがあったからかもしれない。曲輪(くるわ)は外させたが、そのまま生駒家が住んでよいとしたのは、単なる敵、味方の関係ではないのではないか。

 今回は、確かなエビデンスを持って書いては居ないが、周辺史料から総合的な状況判断をし、可能性を書いてみた。これは、私の独りよがりではなく、今後、有意義な歴史の研究や創作に繋がる事を期待している。
私の力ではこれ以上は及ばないが、総論として真剣な推測である。

現地に赴き、織田信長の足音を感じられたら・・・、素晴らしいロマンを感じるであろう。


この地籍図は「愛知全図」(明治14年)を用い1991年に愛知県教育委員会が出版した「愛知県中世城館跡調査報告Ⅰ」に掲載されたもので、原本にも城の輪郭を示すマーカーがあったが見難いため、蛍光ペンでなぞったものである。北側は特定(確定)されていないようで、点線にしてあるかマーカーが引かれていない。真ん中のピンク色部分は、当HPの「歴史史料の説明」に掲載してある「生駒屋敷図」をなぞったものである。

生駒 英夫