コラム 生駒屋敷

歴史探索:徳姫(織田信長:長女)・徳川信康(徳川家康:長男)

 徳姫は、生駒家長(四代)の妹(戒名:久菴桂昌大禅定尼)と織田信長との間に、織田信忠・信雄の妹として生まれた。九才の時、織田信長と同盟関係にあった岡崎の徳川家康の嫡男・信康に嫁ぎ(注1)、岡崎殿とよばれた。

 信康との間に二女を儲けたが、信康切腹事件の後、娘二人(注2)を徳川家康の元に残し清洲に帰っている。信康死後の徳姫の動向について、東京大学史料編纂所の岩沢愿彦教授が当家生駒陸彦を訪ねた後、生駒家古文書を出典とし「日本歴史」(1982年1月号第404号:吉川弘文館)で『岡崎殿異聞』を記している。

 徳姫の周辺を時系列に整理し、その次に『岡崎殿異聞』の概略を記す。

※本文は文末のPDFファイル参照。

 永禄二年 (1559年)
徳姫誕生・同年、信康も誕生。
 永禄十年 (1567年)
徳姫、信康に嫁ぎ岡崎城に入る。
 天正七年 (1579年)
信康切腹。
 天正十年 (1582年)
本能寺の変、信長・信忠父子死亡。
清洲会議、信雄,尾張国(清洲)の領主。
 天正十八年(1590年)
小田原征伐、信雄,尾張国除封(没収)。
福島正則が領主として清洲に入る。
 慶長五年  (1600年)
関が原の戦い。
 寛永十三年(1636年)
徳姫死亡(七十七歳)

 岩沢愿彦教授 『岡崎殿異聞』概略
 「徳姫は岡崎を出て清洲に帰るが、小田原征伐後、織田信雄が秀吉に尾張を没収され、代わりに福島正則が清洲城主となったので、徳姫に仕えていた埴原加賀守は、徳姫を主家と仰ぐ侍臣でありながら、信雄の家臣でもあったので、徳姫や侍女の「お亀」・「おちゃあ」は今後どうすればよいかを、高台院(秀吉正妻・ねね)の側近(孝蔵主)を介して、秀吉の意向を聞いた。

 秀吉からの朱印状(埴原へあてた天正一八年八月二十二日付・・・稲沢市史編纂委員会蔵)で、徳姫に仕えるよう指示があり、徳姫主従は清洲を出て亡き母親の実家である小折の生駒家に赴いた。埴原加賀守は田代に、侍女の「お亀」・「おちゃあ」は八竜に居住した。(注3)
 この三人は「織田信雄分限帳」に載っている人物で、埴原は織田信長の旧臣であった。

 徳姫はその後、小折を離れ京都(居所は烏丸中御門等云われ定かではない)に上る。その時期は明らかではないが、慶長五年の関が原の戦いの時、生駒家には東軍(徳川方)と西軍(岐阜の織田家・・領主は久菴桂昌大禅定尼の孫・織田秀信)からの誘いがあり、一族郎党の命運を賭けた判断を迫られる大変な時期で、その頃京都に移ったと推測される。

 関ヶ原の戦いでは、生駒家は徳川方につき江戸時代まで存続した。岐阜城落城の後、織田秀信も敗残の身を一時小折に寄せており、徳姫・秀信にとり小折は母や祖母の実家で安息の地であった。

 関ヶ原の戦い後は、徳川家康の四男・松平忠吉が福島正則に代わり、尾張の領主となり、徳姫に賄料として知多郡で約二千石を給し、亡くなるまで生駒利豊(五代・・徳姫の従姉弟)が管理していた。」

 以上が岩沢教授の論文の概要である。徳姫も波乱の戦国時代に翻弄されながらも生き抜き、徳川時代は尾張領主の松平忠吉・徳川義直に賄料を貰い、亡き長兄(信康)の正室として大事に処遇されていたと推測される。

(注1) この時の様子が「家長公伝記書付」に記されている。
  「永禄十年五月一七日尾州ヨリ三州岡崎エ御入輿アリ、此輿堅メノ役ト〆信長公ヨリ八右衛門(家長)ヲ途中ノ守護に御添ナサレケレバ、家康公も御安堵被成候トテ、御悦不斜、~ 家吉銘ノ御刀ヲ下シ賜リ、~ 一休禅師墨跡掛軸、御手ラ賜之」
とあり、家長が付き添い、家康から太刀と掛軸を賜った事がわかる。
(注2) それぞれ小笠原秀政(信州松本藩八万石藩主)と本多忠政(姫路藩一五万石藩主で徳川四天王・本多忠勝嫡男)に嫁いだ。
 当ホームページ「歴史コラム」の「本多平八郎姿絵屏風」を参照。
(注3) この事は宝頂山墓地の利豊妻女(苗木藩主・遠山友政長女)の墓碑に記されている。
 「~岡崎三郎源信康主室織田信長公長女 号見星院殿出清洲邑 小折家長営本丸住居~」と、徳姫が清洲から小折に移住した事が分る。
徳姫の戒名は「見星院香岩桂寿大姉」である。
 また、関ヶ原の戦い後の織田秀信についても、同墓碑に次の様に記されている。
 「岐阜軍和睦 干時依 台命 黄門秀信卿 以由跡故 被移小折 利豊供奉送之還 ~ 秀信卿被至勢州朝熊~」とあり、清洲会議で有名な三法師(幼名)が、生駒家が親戚(祖母の実家)と云う事で、利豊に伴われて小折に一旦還され、その後、伊勢の朝熊(最終的には高野山)に行った事が分かる。
 墓碑文については、当ホームページ「歴史史料の説明」に掲載あり。

「日本歴史 1982年1月号 第404号」該当ページ

平成29年10月
生駒 英夫