今回は、生駒家に残る書状や当時書かれた記録から、現代まで残る歴史の風景を紹介したい。
【若き日の秀吉との交流の記録】
若き日の秀吉の記録は少ない。現代の名古屋市出身と言われながら、名古屋をはじめとする尾張地方では、三英傑として扱われているものの代表的な武将は居ない。
織田信長なら岐阜か安土が連想され、豊臣秀吉と言えば大阪が連想され、徳川家康と言えば三河、駿府、江戸が連想される。
各々が尾張に居たのは若かりし日で記録が少ないため、実感が無いのだろう。ただし、今後、正しい歴史のパズルのピース(書状や記録)を集めて行くと、情報化社会の現代であるため、新たな事が見えて来るかも知れない。
さて、前置きが長くなったが、生駒家所有の書状の中に秀吉と弟の秀長の書状(手紙)で、日本で2番目に古いものがある。信長がまだ岐阜を攻略していない時期、秀吉は現在の愛知県一宮市の「加納馬場」という地域を領地として与えられていた。
内容は「加納馬場の年貢の徴収を久菴の兄、生駒家長に徴収してきて欲しい」という内容である。(近日、HPの歴史史料の説明に掲載予定)もちろん、秀吉自身が書いたものではなく、弟の秀長が書いたものと推測されるものである。なお、ここで秀長が登場する事は、歴史研究において意義のある事である事も記しておく。
秀吉が若かりし頃、尾張に確かに居たという記録であり、若い頃から生駒家との関りがあった事を示すものである。
掲載した地図は愛知県江南市と一宮市の境の地域である。青いマーカーで示した部分の左側が秀吉が管理した地域である。書状にも加納馬場とあり、古くから変わらぬ地名である事がわかる。
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【久菴の観音像】
久菴(信長の側室:信忠・信雄・徳姫の母。武功夜話では「吉乃」と名付けられた)の観音像で一般的に広まっているのは、「武功夜話」にある、「信長が久菴の死を悲しみ、三日三晩泣いた。これからも自分(信長)を見つめて居て欲しい」と小牧山城に向き合う様に観音像を建てたという話である。
この信長が涙したという話は、当ホームページの「歴史史料の説明」の「久昌寺縁起」にある。現代語訳を見ていただくとわかりやすい。信長は「小牧の城楼に登り」西を向いて涙を流したのである。
「小牧山城で三日三晩涙した」という話は、この「久昌寺縁起」がモデルである。
では、本当に信長がこの観音像を建てさせたのだろうか。生駒家にはその様な記録は無い。生駒家では、現在も観音像が残る地に、埋葬の際にお経を筒に入れ8軸埋めたとの記録が残る。お経を埋めたので「経塚」とした。場所は掲載した地図の③の箇所である。
丁度、歴史コラムの前項の「信長が作ったもう一つの城」で紹介した城跡の「西ノ丸」に近い場所であろう。そして、この西ノ丸の地名も現代も残り使われている。
久菴の荼毘地に観音像を建てたのは誰か。6代目の生駒利勝の時代である。(1600年代後半)これは、生駒家に残る「古記録」と呼んでいる古文書に記してある。
そこには、小折村に隣接する村(地図で見ると加納馬場)から度々、松の木を持って行かれるので、歴代の荼毘地(塚)に境界を示す意味で墓碑と建てたとある。その際に観音像を建てたのである。久菴は③である。②は遊佐河内守(戦国時代の生駒家の縁者)で墓碑は久昌寺の末寺である道音寺で移設して残る。①は梅塚と言い、4代目の生駒家長の孫である生駒平三郎の墓碑が今も残る。(歴史史料の説明に写真付きで掲載)
生駒平三郎は、一旦は阿波で過ごしたが、織田信長の孫、織田秀信(三法師)に仕え、1600年の岐阜攻めの際に戦死した。この生駒平三郎の戦いの様子は、生駒家だけでなく、細川氏の「綿考輯録」(めんこうしゅうろく)にも生駒平三郎の名とともに記録されている。生駒平三郎の子は、その子孫は阿波に残り幕末まで徳島藩に仕えた記録が残る。生駒家長が戦死した孫を引き取り、塚に埋葬したものである。現在は「梅塚」と呼ばれている。
すなわち、①②③の観音像や墓碑は生駒家の戦国時代の重要な人物の埋葬の地、塚として残された場所に、1600年代後半に村の境界を示すものとして建てられたものである。
最後に、この様に私が書く事で「武功夜話」は史実だとの主張を否定する事になってしまう事を伝えておきたい。
例えば、前項の「信長が作ったもう一つの城」。もちろん可能性を述べたものであるが、小折城は実在した。生駒家以外にも記録は残り、地籍図でもその名残りを確認できる。しかし、戦国時代に書かれて、江戸末期に書き写されたとも言われる「武功夜話」には、小折城は出て来ない。その様な発想が生駒家にも昭和30年、40年当時なかった。生駒家も研究者も小折城の特別さは認識していたが、理由は誰も推測すらできなかった。
1991年に愛知県教育委員会が出版した『愛知県 中世城館跡調査報告1尾張地区』を参考に、築城当時の他の城との規模や扱いの比較をし、生駒家の史料や他の史料、編纂物を概観する事で小折城の特別さを知る事になったのである。情報化が進んだ結果と言えよう。
「武功夜話」が「信長公記」以前に聞き伝えで書き留めていたものなら、生駒家は商人で、信長が軍議をしたとされる舞台は生駒屋敷とはならなかっただろう。「生駒屋敷」と呼ばれる様になったのは、1586年の小牧長久手の戦い以降の事であるためである。
また、信長が久菴の死を悲しみ、小牧城に向いて観音像を建てたという話も、建てた年代や理由を生駒家が作者に伝えなかったため、年代も理由も全く誤ったものになってしまっている。
これまでは、生駒家が自身の家の事を発表すると、信長はじめ生駒家周辺の研究に客観性が損なわれる事を考え何も発表してこなかった。その一環で武功夜話への言及は控えていた。大学や研究機関の学者をはじめとする権威ある研究により解決する事を願っていたが、今後は、生駒家に残る歴史の記録の発表だけでなく、もっと議論が活発になる事が有意義だと考え、記して行こうと思う。
生駒 英夫