私たちが、歴史を扱うにあたり、二つの側面がある。一つは、日本固有の人の営みや文化を誠実に研究すること。私たちの先人が繋いできた日本を正しく後世に遺して行く事である。もう一つは、ドラマや映画、小説、マンガなどのフィクション、創作を楽しむ事である。事実は必ずしも面白いとは言えない。創作することで、日本の歴史に接しやすく、楽しみながら、歴史の大枠を知っていく事である。
その中で、やってはいけない事がある。歴史の捏造である。ある考古学者が、ゴッドハンドと持ち上げられ、その名声を維持したく、遺跡調査の際、早朝に遺跡に向かい、仕込み、「こんなんでましたけど~」と白々しく発見し、新説を唱える。新聞社に現場を押さえられ、終わった。
本人の全てが失墜しただけでなく、彼の所業による、これまでの日本の歴史解釈の変更が余儀なくされた。大変な迷惑と損失である。
「東日流外三郡誌」では、天井裏から、古文書が落ちてきたと、そこにドラマティックな新説があったと称して騒ぎ、大河ドラマにも採用された。その後、発見者の捏造とわかり、これも、自身だけが楽しみ、周りは騙された「私物化された歴史」にすぎなかった。純粋な大衆を欺く、この様な行為を聞くと心が痛む。
そして、私が関連するところでは、「武功夜話」である。生駒家は先の大戦中から、昭和26年まで、現在の愛知県江南市にある、生駒家の菩提寺である久昌寺に疎開をしてくらしていた。昭和26年に名古屋に帰る前に、地域の歴史愛好家のリクエストに応え、名古屋から避難させた古文書類をお見せする、『久昌寺古文書展覧会』を開催し、貸し出しも行った。そこで、写したものを原型として作られたと考えられる小説が、「武功夜話」である。そのような約束で許可をしたものである。「武功夜話」の作者は、製作の過程で自分は途絶えたはずの前野将衛門の子孫であると称し、また、川並衆なるものが存在するとした。
しかし、生駒家の古文書には、前野将衛門などの名前は一切なく、川並衆という言葉、そのメンバーの名もない。
武功夜話には、いくつかの単語や表現、年代の解釈の相違により、武功夜話自体に真贋論争があるが、生駒家では論争に値しない。全てがコピーで、フィクションだと、最初の約束で決まっているからである。
生駒 英夫