コラム 生駒屋敷

熊本地震と熊本城崩壊

 平成28年4月14日と16日に熊本地方を襲った震度7を観測する連続地震は熊本城にも甚大な被害をもたらした。建造物の大半に被害があり、石垣も50数か所に崩れが生じ、石垣全体の約3割を積み直す必要があると云われています。
  
 名古屋の人に加藤清正はどこの人ですかと質問すると名古屋の人(尾張出身)
と答える人が殆どかと思われますが、我々熊本市民にとって加藤清正は天下の名城・熊本城を築いた熊本の人なのです。名古屋城の本丸の石垣は徳川家康の天下普請の時、清正が受け持ちましたので、その為か名古屋城には清正の像が建てられており、熊本城と名古屋城は縁があるのです。

 熊本市民にとって「加藤清正」 = 「石垣・櫓が多く、西南戦争でも西郷軍が落とせなかった熊本城」は誇りでもあり、子供の頃から遊んでいた心の故郷です。石光真清(軍人で満州で対ロシアの諜報活動に従事)の「城下の人」と云う本に西南戦争での熊本城攻撃の2日前に不審火により天守閣等が焼け落ちる時、真清10才でしたが、皆涙を流しながら眺めていたと云う描写がありますが、城下町の人々にとってお城は町のどこからでも見える最高のシンボルでした。

 私と熊本城の思い出は、家からお城の正面入り口につながる御幸坂まで、10数分でしたので、よく友達と遊びに行きました。昭和20年後半から30年代半ばにかけての頃です。昆虫採集や安全で低い石垣を上級生の指導で登ったりしたものです。

 当時、入園料はなく、本丸周辺は解放され整備もされていましたが、進駐軍(米軍)の施設が一部残っており、立入禁止区域もかなりありました。解放されてはいるが未整備の空堀・空き地は小笹や雑草でぼうぼうで、探検気分で怖さも感じながら上級生の後について遊び回ったものです。

 現在、美術館がある二の丸広場の芝生地も、当時は明治時代からの古い木造の兵舎(戦後学校に転用)が残っており、雑草だらけでした。

 本丸はまだ再建されておらず、本丸と小天守閣の石垣に囲まれた底地で、友達に教えて貰って掘ったら西南戦争時に焼け落ちた本丸に使われていた釘(4~5センチ)を2~3本見つけました。80年程前に焼失したお城の釘がまだこうして埋まっていたとは感激でした。(その釘はどうしたか記憶にありません。)教えてくれた友人の友人は、以前30センチ程の釘を見つけ、喜び勇んで博物館に持っていったら即没収されたと云っていました。当時、本丸前の広場
には、旧陸軍第六師団司令部の建物が戦後博物館になっており、あまり訪れる人もなく閑散としていました。また、戦前、師団司令部があったので、一般人は本丸跡など入れなかったのでしょう。

 当時の思い出としては、今回の地震でも櫓本体・石垣の被害が無かった宇土櫓に登った時、我々二人以外人気がなく、階段を上って部屋の片隅を振り返ると人が居てびっくりしました。人ではなく、清正公に因んだ物語の人形でした。

 昭和35年(1960年)篤志家の大口寄付があり、大小天守閣がコンクリート造で再建されその様子を当時中学生の私は教室から眺めていました。入場料も取られるようになりました。だんだん雑草地も整備され、下校時にはよくお城の空き地でソフトボールを楽しんだものです。

 二の丸広場も美術館ができてきれいな広場になり、平成19年(2007年)には本丸御殿を木造復元するなど、他の櫓・門等を木造復元して入場者数も姫路城を抜いて連続して日本一になるなど(姫路城は工事中だったこともある)人気のお城で、NHKのブラタモリでも石垣が多く、難攻不落の城と紹介されたのですが、数ヶ月後に地震で壊れてしまいました。

 本丸等一部は3年程で再建するようですが、地震前の姿になるには20年はかかるとも云われ、我々世代は多分見られないでしょう。

 日本は地震国で、どうしても古い建物などは崩壊する運命にありますが、鎮守の森とかお寺の境内とか城跡など小さい頃遊んだところは心の故郷で、年齢とともに懐かしく、また辛い事があった時訪れて楽しかった頃を思い出す場所でもあります。ですから合理性・経済採算で判断するのではなく、歴史的建造物等は後生の人々にとっても心の故郷になるよう残したいものです。

平成29年1月       
生駒屋敷歴史文庫の愛読者