赤穂浪士の映画やドラマでのお城明渡しの場面では、籠城交戦派と開城派が激論し、受取側(龍野藩脇坂家)も一戦に備えた軍備で向かう緊張した場面がありますが、江戸城の場合はどうだったのでしょか。
西郷と勝の会談で「無血開城」が決まり、薩長を主体とした官軍が接収したと思っていましたが、実は官軍側の先鋒隊として直接受取、江戸城を暫く警護していたのは尾張藩の兵隊だったのです。
時系列で簡単に経過を書きます以下のようになります。
*慶応4年(1868年)
[4月4日] ・・・勅使・橋本実梁が西郷隆盛等を従え江戸城に入り、徳川家 代表、徳川慶頼(亀之助の実父、亀之助は当時6歳)に江戸城明渡し日を4月11日にすることを伝える。
[4月11日]・・・東征大総督・有栖川宮、江戸城に入り正式に明渡しを受ける。このとき、尾張藩の兵隊約800名が受取実行部隊として入城し、江戸城警護の守備につきました。江戸城は狼藉者等に荒らされる事もなく、その後、政府側に引継がれます。
尾張藩が先鋒隊となったのは、田安家からは、尾張藩主に斉荘(十二代)・慶臧(十三代)がなっている関係で、尾張藩と田安家は知り合いも多く親しい間柄であったからではと云われています。これが、薩長の兵隊では摩擦が起きたかもしれません。尾張藩兵は江戸城を警護している時、盆栽を枯らさないように 水やりもしたそうです。
[7月17日]・・・「江戸」を「東京」に改称。
[9月8日]・・・元号を「慶応」から「明治」に改元。
鳥羽伏見の戦い以降、生駒周行は軍事副総裁(2月)、軍事総裁(8月)の職に就きましたので、江戸城明渡しの手続きにも対応していると思われます。
*明治元年(1868年)
鳳輦の右手前に平伏しているのが、徳川慶勝父子でその後ろに重臣が10名程描かれていますが、当時の役職から、生駒周行(15代)も入っていると思われます。
[10月13日]・・・明治天皇、江戸城に入城。二重橋を渡られる様子を描いた絵画が、「東京御着輦」 として上記絵画館に展示してあります。 このとき、周行は、尾張藩を代表して江戸城で明治天皇をお迎えしています。その後、天皇は12月に一旦京都に戻られます。
*明治2年(1869年)
[6月17日]・・・版籍奉還により、名古屋藩と称するようになり、知藩事(旧藩主)・家臣の役職を朝廷が任命するようになる。
生駒周行は尾張藩の執政として、田宮如雲・間宮外記・志水甲斐と共に藩政を担っていましたが、版籍奉還後の9月、太政官より 「名古屋藩 権大参事」 に任命され、「刑法知事」・「民政判事」などの職に就きました。
*明治4年(1871年)
(参考)
神宮外苑の聖徳記念絵画館(東京・信濃町)には、歴史教科書などによく記載されている有名な絵画が多数あります。
「大政奉還」(二城城)、「王政復古」(小御所会議)、「江戸城談判」(勝・西郷)、「岩倉大使欧米派遣」(横浜港)など。
(参考文献)
徳川家が見た幕末維新 徳川宗英著 文藝春秋
徳川某重大事件 徳川宗英著 PHP新書
江戸城大奥の秘密 安藤優一郎著 文春新書
平成28年6月
肥後 次郎