コラム 生駒屋敷

尾張藩の江戸屋敷と江戸勤仕中に亡くなった生駒宗勝(7代)

 江戸時代、各大名は幕府から「上屋敷」・「中屋敷」・「下屋敷」を貰っていましたが、大名によっては幕府にお願いして、 さらに「拝領屋敷」を貰ったり、他から金銭で購入した 「抱屋敷」 も所有していました。

 尾張藩の場合は、上・中・下屋敷のほか築地や河田(上屋敷と下屋敷の中間辺り)や新宿などにも屋敷を持ち、総坪数は30万坪程あったと云われています。

 上屋敷(市谷屋敷) ・・・・約7万5千坪 (名古屋ドーム5個分の広さ)

殿様や奥方の屋敷や江戸での藩政機構があり、回遊式庭園「楽々園」もありました。現在、防衛省のある所です。

 中屋敷(麹町屋敷) ・・・・約1万7千坪 (名古屋ドーム1個分強の広さ)

隠居した殿様や世子が住む屋敷。現在、上智大学のある所です。

 下屋敷(外山屋敷) ・・・・約13万坪 (名古屋ドーム9個分の広さ)

生活物資の保管場所であり、火事等災害時の避難場所でもあり、別荘としても利用され、 有名な小田原宿を模した庭園がありました。現在、西早稲田と云われる一帯です。

 各屋敷とも、家臣団の長屋も備えており、藩主在府時の江戸勤仕の家臣総数は、奉公人も含めて 多い時は5千人~6千人にのぼったと考えられています。

 なお、生駒家の人では、宗勝(7代)・周房(10代)が江戸勤仕をしており、宗勝は江戸で元禄13年(1700年)に亡くなり、 四谷佐門町の永心寺(曹洞宗)に葬られています。
 永心寺にある宗勝のお墓は写真にある様に、蓮の花を浮き彫りにした美しいお墓です。
 久昌寺にもお墓があります。江戸のお墓は土葬と思われますので、分骨ではなく、遺髪でも埋葬してあると考えられます。

 各屋敷とも広大な敷地ですから、雑木林や荒れ地部分もありますが、尾張藩は土地を遊ばせずに、 一部を農民に貸したりしています。

 例えば、中屋敷では、出入りの豪農に2千坪の開墾資金(十両)を貸し、貸金返済期間(5年間)は年貢免除とし、返済後は年貢をとっています。

 お米は国元から年貢米を運ばせ、野菜は農民に屋敷内で作らせ、屋敷内で出る下肥をその肥料として活用すると云った自然な循環経済ができていた訳です。下肥は、化学肥料のない江戸時代には野菜生産には欠かせない貴重な物でした。

 大名屋敷の下肥汲み取りの権利を取るのは競争で、権利を取った業者(豪農)は、金銭支払か、農作物納入かなどを大名家と契約し、実際の汲み取り作業は、希望する近郊農民が馬や大八車を引いて、屋敷内に入り持ち帰えったそうです。

 豪農にとり、大名家への支払額と農民から貰う金額の差額を利益として儲けるビジネスです。
 面白いのは、殿様が江戸在府か国元かで、屋敷内の家臣数も半減するため、汲み取り料も交渉して減額していたそうです。

 余談ですが、下肥も食べ物で肥料としての効果が違っていたらしく、大名・旗本屋敷は「上」、武家屋敷は「中」、裏長屋は「下」との評価があり、如何にして、大名屋敷の権利を取るか競争が激しいかったそうです。

 ただ、権利を取った豪農も下肥の汲み取りのみを請負うだけでなく、「藩御用達豪農」 として、屋敷内の馬の飼料の調達・管理や屋敷内の広大な庭園の整備なども請負っていました。

【参考データ】

「名古屋ドーム」 の建築面積 ・・・約1万4千6百坪
「東京ドーム」    の建築面積 ・・・約1万4千2百坪>

【参考文献】 

安藤優一郎著  『大名屋敷の謎』  集英社新書
『尾張徳川家外山屋敷への招待』   新宿区立新宿歴史博物館

平成28年7月
肥後次郎