武功夜話は生駒家が史料群や名前などの使用の許可をして創作されたものである。もちろん、フィクションである。出版に至る過程では、作者自身が前野長康の子孫と名乗ったり、川並衆なる集団を創作したり、武功夜話やそれを補足するだけの「吉田家文書」(前野家文書)を史実とした事に、何度も警鐘を鳴らした。この異常事態に、実名は書かないが何人かの学者も危惧し、警鐘を鳴らした。
しかし、一部の小説家が扱い方を間違えたため、今日まで、論争が続き、自治体も原本非公開という事もあり、検証できず、中立という立場を取っている現状がある。
この事態は、織田信長や豊臣秀吉の若かりし頃の研究を大きく阻害しているだけでなく、地域の歴史の研究を阻害している。それは不幸な事だと考え、このコラムでは、名前や年齢と言った、小説で広まった基本的な部分について、そのいきさつと、事実を書いた。
今回は3回目。これで、より多くの方がこの捏造事件に対して、アプローチでき、阻害されてきた研究分野に取り組める事と思う。以下の通りである。
【生駒家は、商売をしていない。豪商でもない】
知らぬ間に、信長の側室の在所である生駒家は豪商と広まっており、多くのそれらしい書籍などでも、その様に書かれている事を知り驚いた。いつから、当家は豪商になったのかと。
しかも、「馬借で灰と油を扱い、財をなした」と書いてある。要するに、これは武功夜話の話である。
先代(存命)が、作者の吉田氏に、「もし、生駒家が商売をしていたとしたら、何が考えられますか」と質問され、苦渋の答えとして、『「馬借」の「護衛」ならあり得るかも』と、フィクションのアドバイスとして語った事が、そのまま、事実として語られるようになっている。
実際はどうか。生駒家は2代目の時には、すでに織田信長の叔父にあたる犬山の織田信清の旗本(重臣)である。(このエピソードは別途執筆予定)
3代目は、岐阜を飛び越え、現在の大垣市の西尾氏の長女を妻に迎えている。その息子と娘が4代目の家長であり、信長の側室の久菴(通称:吉乃)である。なお、5代目は中津川の苗木城の遠山友政の長女を妻に迎えている。
すなわち、記録に残るものでは武家であり、武家のやり取り(手紙)であり、商売の記録は皆無である。生駒家に無い物が吉田家にあるはずが無いのは当然の事。あれば、原本調査をすれば、すぐに偽物とわかる。生駒家は豪商だったとした時点でフィクションだったのである。
また、現在も残る、愛知県江南市の指定文化財でもある石造群約40基などのいずれを見ても、商売をやっていた形跡がないのは一目瞭然である。
商売をやっており、財力を目的に織田信長が近づいたなどという話は、昭和30年代~40年代に書かれたであろう「武功夜話」の話である。
人生の折り返し地点を迎え、後を継ぐ際、世の中はいつの間にこの様になってしまっていたのかと大変驚いた。一部の方が、偽書や焚書にせよと戦って下さっていた事に、日本人として敬意を表したい。
当家にある織田信長から側室久菴の兄である、4代目の家長に宛てた書状に以下の書状(現代語訳)がある。当ホームページの「歴史史料の説明」の項に写真付きで掲載しているので参考にしていただきたい。
「尾張の国中、自由に(関銭を取らず)通行してよい。この事は、末代まで間違いないことである。」
桶狭間の戦い後か、犬山城攻略後か、いずれにせよ数少ない、若かりし頃の信長の書状である。織田信長という人物のキャラクターは、現在の様々な創作とは異なっているかもしれない。
生駒 英夫