「本多平八郎姿絵屏風」とかぶき者(信長)の血筋
徳川美術館に「本多平八郎姿絵屏風」(重要文化財)があります。
「花下遊楽図屏風」(国宝・・東京国立博物館蔵)や「彦根屏風」(国宝・・彦根城博物館蔵)と並んで、江戸時代初期の風俗画の名品に数えられています。
戦国の世が終り、徳川幕府の体制も安定し、平和な時代へ向かって行く頃で、人々も余裕が出てきて風流を好み、花見や出雲の阿国の踊りを真似して刀をかついだり、杖代わりの様にもたれかかったり、鉢巻をだらりと巻いたりした姿(所謂 かぶき者)で踊るなど楽しんでいる様子が屏風に描かれています。
「本多平八郎姿絵屏風」は本多平八郎忠刻と千姫の結婚前の手紙を渡す場面を描いたものと伝えられおり、他の二作と異なり踊りの様な場面は描かれていませんが、衣装などに当時の若者の姿が窺がわれます。
この屏風は縦約72cm・横約160cmの二曲一隻でやや小振りですが、右側の真ん中の葵紋小袖を着た女性が千姫といわれており、左側の若衆が忠刻と云われています。
忠刻はスカーフの様な襟元に刀の鍔は四角形で、扇子を垂らした「かぶき者」の姿に描かれています。
ところで、本多平八郎忠刻とは如何なる人物でしょうか。忠刻は徳川四天王の一人「本多忠勝」の孫で、母親(徳姫の子)は織田信長と久菴桂昌の孫にあたります。つまり、忠刻は織田信長と久菴桂昌のひ孫です。
現代の長寿社会に於いては、曾祖父母とひ孫が遊ぶ事も多く以外と身近に感じられますね。
「本多平八郎姿絵屏風」の中の忠刻を眺めながら、この人にも「織田信長と生駒」の血が流れているのだと感慨にふけりました。
織田信長は、若き日の派手な装いや、南蛮風兜やマントなどかぶき者の先駆者ですが、その血が忠刻にも流れていたのでしょうか。
忠刻は千姫と結婚(1616年)後、父忠政が桑名から姫路藩主(15万石)に転封になった時、父とは別に10万石を貰いましたので、将来は25万石の藩主になる筈だったのでしょうが、父より早死(1626年)し、千姫との間に生まれた男子も先に亡くなっていた為、忠刻家は途絶えました。
なお、忠刻のお墓は西国三十三ヶ所の二七番札所である姫路の円教寺にある本多家墓所にあります。御朱印貰いに行きましたが、「西の比叡山」と云われるだけあり、寺院も本多家墓所も立派でした。
(参考)
上記の三屏風につきましては、所有者のHPに載っていますので、インターネットにて参照下さい。
「花下遊楽図屏風」の作者は狩野長信(狩野永徳の弟)と云われていますが、「彦根屏風」・「本多平八郎姿絵屏風」の作者は不明です。
円教寺についてもHPの写真で寺院・墓所等の様子が判ります。