コラム 生駒屋敷

「武功夜話」問題に於ける、私の想い。
 =すべては、「生駒吉乃」という名が物語る=

 武功夜話は戦国期から吉田家に伝わるものとされ、3巻本、5巻本、21巻本があると言われているが原本を確認した者はいない。確認し江戸時代末期に書かれたと判断をしたという事も原本と称するものを破棄される事を回避するためのリップサービスしたものである。原本と称するものを燃やすだとか、破棄すると言われては後の検証に弊害が出るためだ。愛知県史の三鬼清一郎氏などはその様にされたと聞く。
小和田哲男氏については根拠は明らかにせず同様に江戸末期に書かれたものと見解を出したようだが、それ以上踏み込んでいない。

 史実ではないと疑うなら焼却するという発言や行為は古文書を管理すると称するのであれば、極めて滑稽な言動であるし、研究者や愛好家は大変困ったと思う。

 
骨董品収集家で筆まめな吉田氏は昭和42年頃、生駒家17代 生駒秋彦に小説を書きたい旨申し出、秋彦はそれを承諾をした。  

その後、昭和45年頃から18代陸彦に代わり、吉田氏は小説のヒントを求めた。『久菴』という呼び名や『馬借』のヒントはその時に伝わったものである。

 武功夜話が昭和の小説であると特徴付けるものは「吉乃」という名前をつけた事だ。生駒は奈良県から来た一族なので、当初は吉野桜からとり、「吉野」としていた。

しかし、「生駒吉野」となると、「生駒」という姓と、姓で使われる「吉野」が連なり、「生駒吉野」と「姓+姓」になりバランスが悪いため、郷土史家のアドバイスもあり、「吉乃」となった。小説上の名前は「生駒吉乃」になったのである。

「生駒吉乃」 戦国時代、江戸時代には使わない、現代的な名前である。

 その様な変更は、話で聞いたので、小説を構想する上ではあり得る事と思い、当家から注文を付ける事は無かった。フィクションなので自由に創作すれば良いとの姿勢であった。

また、生駒家では久菴と呼んでいたので、「吉野」であろうが、「吉乃」であろうが、小説の中の話しであるため、どちらでも良かったし、小説上の名前に特別な関心も無かった。

 小説を面白くするために大きく脚色した事は、「生駒家は馬借を生業とする豪商である」という内容である。生駒家は、犬山城に居た織田信康の旗本(重要な家臣)であった。

 生駒家は現在の愛知県江南市に勢力を持っていた。織田信長が清州または那古屋から攻略を狙った岩倉(岩倉城)、犬山(城)の中間に位地する地域である。

愛知県の南から岩倉→小折(江南)→犬山と位置する。織田信長は、犬山城と岩倉城の中間に位置する生駒家の小折城に目を付けたと思われる。久菴と婚姻関係を結び小折城(江南市)を仲間に入れ、犬山の織田信康と組んで、岩倉の織田氏を攻略した。

その後、織田信長は犬山城の織田家と岩倉城の扱いについて、意見を異にし、犬山城の織田家を追放し、尾張の統一を成し遂げた。

生駒家にもこの様な記録はあるものの、生駒家が馬借や灰や油を売る豪商だったなどの記録はない。
歴代、地域の豪族と婚姻関係を結び、勢力を伸ばした武家であった事が各地の記録に残る。各地の一次史料でも、当時、生駒家が商人であったという記録はない。

この生駒家の背景は、あくまでも武功夜話を信長と吉乃の恋愛ストーリーにするための小説上の設定である。

戦国時代当時、生死を分ける局面で、商人の娘と婚姻関係を結び長男、次男、長女をもうけることはない。小説上、単に面白いものに仕上げた結果である。

これらは全ては一次資料で確認できる。生駒家が尾張でどの様な勢力を持ち、どの様な婚姻関係を持ち、どの様な位置づけだったかがわかる。

この様な小説の話であったため、当家は、当然、史実とはかけ離れた時代劇と同じく思い関心が無かった。
この時はまだ、吉田氏自身が後に「前野将衛門の末裔でした」とするとは、考えも及ばなかった。

しかし、昭和53年頃、生駒家も小説に関心を持たなくなった頃であるが、作者の吉田氏が「自分は前野将衛門の子孫である」と称し、次々に原本非公開の偽文書を作成し、上手に世間を欺いてしまった。

その結果が5巻本となり、さらに増えて21巻本まで増え、途中、間違いを指摘された際に、その間違いを補完するとする史料と称し、古文書などを作成し、正しさを主張し世間を欺いてしまった。

戦国時代の名前とされた「生駒吉乃」という現代的な名前。或は、尾張藩の史料、生駒家の史料、歴史過程の一般的な制度、風習などからすぐに終わるものだと思っていたが、21巻本出版から30年を迎えようとしている。

そして今も、吉田氏は史実と称し、「敗者の歴史」と称して真実味を語っているようだ。

結果、三英傑が若い頃活躍した時期の尾張地方の研究が成されず、日本の歴史のターニングポイントの欠落が起きている。

私は、「武功夜話」は当初話があったように、小説として関心を惹く面白い作品であるという評価で満足をして欲しい。有名な武将(前野将衛門)の末裔である事に固執して、史実だと主張しても、内容が稚拙であるし、そもそも吉田氏が末裔に固執しても、誰も得をしない。小説「武功夜話」の名を落とすだけのものである。

後世のためにも、人口が減る日本国のためにも、正しい過去の国の在り方、歴史観を繋ぐために理解をして欲しい。

私にとっては、原本調査は何の意味も持たない。それ以前の小説を書きたいと生駒家に来た時点で決着がついている。

また、現在も生駒家が吉田家を頼り、奈良から小折(江南市)に来たという武功夜話(前野家文書)を史実と主張していく事は、尾張藩の家老である当家の名誉を著しく毀損するものである

吉田氏には、その事も留意いただき、ご自身でこの社会問題に終止符を打って欲しい。

小説「武功夜話」には、小説としての面白さがあるのでベストセラーとして満足した方が吉田氏の子孫の方々にとって良いと思う。

【以下、参考資料】

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 写真は、名古屋市豊清二公顕彰館(現在の名古屋市秀吉清正記念館)で昭和52年3月に開催された、「名古屋 生駒家・滝川家資料展」のパンフレットである。
 
 展示物の紹介では、生駒家関係の資料32点の内、29点が生駒家所蔵のものである。
 
 写真3枚目の赤枠で囲った部分が、当家の陸彦の紹介で、当家所有の冨士塚の碑の拓本(版画)(拓本は吉田氏が所有)を展示したもので、当時は「前野将衛門」の末裔と強く称しておらず、歴史愛好家、骨董品収集家としての認知であったし、研究者の評価であった。同資料展で展示された、前野兵庫書状ですら、吉田氏の所蔵では無い。

 なお、この資料展では、当家所蔵の内藤東甫の俳画(リストの26番目)に吉田氏が強く関心を寄せていた。

 生駒家の多くを語る「武功夜話」。吉田氏が、奈良から生駒家を小折(江南市)に呼びよせた前野家の末裔であり、生駒家以上の情報や史料を持つと称し、この資料展当時に強く主張していれば、当家の冨士塚の碑の拓本を当家の紹介で展示するだけにとどまらなかった事であろう。

 尊く、美しい日本国の歴史のために、多くの方に、この社会問題について正しい理解をしていただきたいとともに、小説「武功夜話」については、小説の名作であるとの評価で留めていただきたい。

令和4年年5月28日
生駒 英夫